2008年01月のアーカイブ
>>前回の話を読む
13時10分、嬉色は起きた。
嬉色は、前の日のことを無理に思い出そうとしたりはしない。それが無駄な努力になるとわかっているし、思い出せたところで、いいことがあるわけがない。
だから机の上にあったトマトを、何の躊躇もなくゴミ箱に捨てた。そしてゴミ箱行きの夜を過ごした後の朝は必ず、満面の笑みを浮かべて、
「おはよう、ハニー」
猫のハニーに挨拶することにしている。
窓辺で、ちらと嬉色の方を向いたハニーは、すぐに毛づくろいの仕事に戻った。そんなハニーに日光浴をさせてあげようと、嬉色は窓辺に近づき、カーテンを開いた。
まぶしい日差しが部屋を満たしていく。
今日は土曜日だ。
腰に両手を当てて、背筋を伸ばす。
嬉色は、東京都の最南端、大田区にあるマンションの5階に住んでいた。家賃6万9千円の1DK。雑種の猫と26歳の女性1人が住むには、ちょうどいい広さだった。
部屋の窓からは公園が見えている。
マンションと隣接しているこの公園は、「羽穂(うほ)公園」といった。だが嬉色は読み方がわからず、はねほ公園だと今も思い込んでいる。
羽穂公園の敷地は広くて、テニスコートや交通広場、噴水もあった。公園の入り口は嬉色の住むマンションに近い。その入り口から公園に入ると、右と左の道に分かれる。左に行くと噴水広場だ。右には道が続いていて、その道沿いにはたくさんのシートが敷かれている。シートの上には人が座っていた。
その道の真ん中を、たくさんの人が通り過ぎていく。たくさんといっても、公園にしてはたくさんという程度。プロのサッカー選手なら、誰にもぶつからず、ジグザグに全力ダッシュで駆け抜けられる程度だ。
そんな公園を、嬉色は見下ろしている。
背筋を伸ばしたまま、彼女はほがらかにつぶやいた。
「ぶっ殺してやる」
ハニーも「ブニャー」と鳴いて同意する。
そのブサイク鳴き声を聞いて、嬉色は少し元気が出てきた。せっかくの休み、なんだか外に出て行きたい気分だった。幸い、服は着ている。今すぐにでも出られるだろう。
そう嬉色は確信した。
窓際から玄関まで、足を止めたのは、猫の餌皿の前でだけだった。皿にはカリカリ(乾燥キャットフード)が10粒ほどしか残っていなかった。嬉色は皿に、新たなカリカリを存分に補給してやった。
さらさらのショートヘアが自慢の嬉色は、手ぐしで簡単に寝癖を直す。
愛用のスニーカーを無造作に履いて、後ろをちょいと向いた。ハニーがついてきていないのを確かめる。ドアが開くのを狙って、ハニーはすうっと外へ出てしまうことがある。
そして嬉色はドアを開け、外に出た。とりあえずの行き先は決まっている。嬉色のマンションのすぐ前に広がる羽穂公園。
通称「フリマチック・パーク」だ。
羽穂(うほ)公園を入ってすぐ右の道。両脇の高い木の上の方には、横断幕が掲げられている。木と木の間は5メートルほどもあり、大掛かりな横断幕だった。
そこには、こう書かれている。
「フリマチック・パーク in 羽穂公園 フリマ開催!」
フリマチック・パークの文字が大きく赤で書かれ、その後に続く文言は小さく黒で書かれている。嬉色はいつもこの横断幕を見るたび、うれしくなる。公園の中に公園があって、フリマ開催である。「フリマ開催! in 羽穂公園」だけで良さそうなものだ。フリマチック・パークって何だ。その中途半端なバカバカしさが良かった。
この羽穂公園では週に1回、フリーマーケットが開催されている。こんなにコンスタントにフリマを開催している公園はそうない。フリマチック・パークと勝手に名前を付けるのも、あながち理由のないことではなかった。
横断幕は、開催日以外でも取り付けられたままだ。だからカタカナを読める子供は「羽穂公園」よりも「フリマチック・パーク」という名前でここを呼ぶ。
今日も道の両脇にはレジャーシートを広げて、いろんな物を売っている人たちがいる。
洋服が一番多いが、場所柄、あまり若い子はいない。おばちゃん服が大量大売出し中だった。子供のおもちゃ、マンガ本のセット、粗品のタオル、小さなダンボールに雑然と入れられたCD。食器のセット、ジャンクなノートパソコン……。
嬉色はそれらになんとなく目を走らせながら、春の陽気を楽しんでいた。財布も持ってきていないので、買い物もできない。どのみちガラクタを買うのは嫌だった。
ただ、見ているだけなら楽しい。
道を少し行くと、小さな広場に出る。広場からはまた道が二手に分かれているのだけれど、ここがフリマのメイン会場ともいえる場所だった。広場の中央付近にもシートが陣取られているため、フリマの客は、ぐるりと一周することができる。
嬉色があと10歩ほどでその広場に入ろうというとき、唐突に脇から大声があがった。
「おい、そこの君!」
反射的に嬉色はその場に立ち止まり、横を向いた。まるで時代劇で聞くような、底の深い、低い男の声がした方向を。
見ると、趣味の悪い白いコートを着た大きな男が、レジャーシートの上ですっくと立っていた。コート同様、顔も白人のように白い。鼻が大きくて、眉毛が限りなく薄い。
頭はハゲている。見事なスキンヘッドだった。
嬉色はその男を、明らかにヤクザだと思ったし、スーパーマンに出てくるレックス・ルーサーかとも思った。
「そう、君だよ、ハニー」
レックスは手招きした。
こんな男にハニー呼ばわりされる覚えはない。嬉色は首を回し、人違いであることを期待して視線を縦横無尽に走らせた。
が、無駄なことだった。
レックスはレジャーシートをまたぐと嬉色へ近づき、あろうことか両肩をその手でひっつかんだのだ。そのままレックスに顔面をぐっと突きつけられて、思わず嬉色はのけぞった。レックスが肩をつかんでいなければ、後ろに倒れていたほどに。
のけぞった嬉色の目を、レックスはギロリとにらみつけた。
「お願いがある。店番だ。店番をしてくれ。いいか、ここに座って、売るだけでいい。そうだな、1,000円までならまけてもいい。それ以上はだめだ。絶対だめだ。わかったか?」
わかった? 何が? 嬉色は頭が混乱し過ぎて、つい聞いてみた。
「2,000円はだめってことですね」
「違う!」
「……」
「1,010円でもだめだ! あげる分にはいい!」
「あげる?」
「そうだ、あげあげだ! とにかくすぐ戻るから、ここにいて店番をしてくれ」
そう言うと、レックスは颯爽と立ち去った。プロのサッカー選手のようにスイスイと道を駆け抜けるわけにはいかず、他の人の体にぶつけながら、公園の入り口へドタドタと駆けていく。ぶつかるたび「すまんな」「すまんな」と声をかけていた。
嬉色は、その後ろ姿をしばし眺めていた。
彼の立ち去った後には、無人の大きなレジャーシートが残されている。上にはなんだか得体の知れないガラクタが大量に置いてあった。
「あげあげ?」
嬉色は、そうつぶやくのがやっとだった。
>>第3回「ゴクミ男と銃声」へ続く
トマトが目の前にあった。なぜトマトがあるのか、向井嬉色(きいろ)にはさっぱりわからない。真っ白くて大きなお皿の上に、トマトがひとつ。真上から照明を浴びて、つるつるの表面をテカテカ光らせている。
猫のハニーが玄関付近で鳴いていた。ときどきクカッという音をさせて前足で壁を叩いているあたり、トイレのドアを開けてもらいたがっているようだ。
そこで嬉色は。慌ててテーブルの端に手をかけて立ち上がると、フラフラとトイレに向かって歩いた。
ハニーをトイレに入れてやるためではない。自分が今恐るべき状態でいて、今にも何かが喉元までこみ上げてくるのに、ふと気付いたからだ。頭の中ではトマトが、まるで万華鏡を見ているように大きさや形を変え飛び交っている。
嬉色は泥酔していた。
何の恨みがあるのか、途中でハニーが立ちふさがった。嬉色を見上げて「ヴニャー」と鳴く。ハニーは、猫とは思えない、とてもブサイクな声で鳴く。豚と馬と猫の鳴き声を足して、3で割ったような声だ。
しかしほとんど惰性で動いていた嬉色は足を止めることができず、ハニーを踏むまいと慌てて横に上体を反らしたところ、思い切り壁にぶつかった。
「うぎょ!」
いつもは美声が売り物の嬉色も、このときばかりはハニーに負けず劣らずのブサイク声で悲鳴を上げた。
(「キイロ! 負けてはだめ! あなたは負け犬なんかじゃない!」)
なぜか頭の中で、母が声援を投げかけてきた。いつもは「なるようになるよ」としか言わない母だったが、今はなぜか真剣だった。
でも確かに負けるわけにはいかない。今なるようになったら、明日の朝、イヤなものを床に見てとるか、最悪の場合、足を滑らせて転んで、ソレまみれになるかもしれない。
「ど、どけぇ……」
なんとかハニーにそう言ったつもりが、ハニーはすでに後方へ退避していた。
トイレのドアを開ける。便器のフタを開ける。座る。もちろん便座の上にではなく、便座の前にだ。
「………はぁ、はぁ、はぁ」
ひとしきり終わると、今度は便座の上に座ってひと休みした。
開きっぱなしのドアからすかさずハニーがやってきて、何の断りもなくひざの上に飛び乗った。嬉色はその背中をやさしく撫でてあげた。ゴロゴロとハニーがのどを鳴らす。頭を飛び交うトマトの数は先ほどよりは少なく、小さくなっていたけれど、まだまだ頭痛は治まりそうになかった。
なぜ机の上にトマトを置いていたのか、嬉色は考えることにした。トマトを憎んでいる嬉色にとって、トマトがあるだけでも不思議なのに、ご丁寧にも皿の上に載せていたことが解せなかった。
「あ、皿は違う。皿は違うぞー」
ふと何かを悟って、トイレのドアに向かってつぶやいた。
「トマトも違う。トマトも違うぞー」
でもトマトは合っているような気がした。
そしてまた頭痛が激しくなり、トマトが頭をぐるぐる周回飛行し始めたものだから、トイレから出て、嬉色は寝床を求めた。
ベッドの上に身を投げる力がなく、床に転がった嬉色は、アイツのトマト好きさ加減を思い出し、豪快に苦笑いした。
「トマト禁止令」を出して3日後、トマトのヘタがごみ箱に捨ててあるのを見つけたことがある。「それはパイナップルの一部なんだよ!」とわけのわからない言い訳をして、嬉色を激怒させた。だけど、今回机の上にあったトマトが、彼となんら関係しているとは思えない。彼を想い感傷的になって、思わずトマトを買ったりするような人間とは自分は違うということも承知している。
そのアイツは、不可解な別れの言葉を残して去って行った。パイナップル事件のときより、よっぽどわけのわからない言葉を残して。
うらめしかったし憎たらしかったし、できることなら煮て焼いて缶詰にしてハニーの餌にしてやりたかった。なんなら私も食ってやると思っていた。
しかし今は、彼がどこにいるのかすらわからない。
玄関口にトマトでいっぱいの段ボール箱を置いておいて、餌にするのは悪くないなと、嬉色は思った。でもトマトを食ったアイツを食べるのだけは、絶対イヤだ。
そんなことを考えながら、嬉色は眠りについた。
>>第2回「お昼のフリマチック・パークへ」へ続く
はじめまして、星井願太郎です。
おかげさまで公式ブログを今日なんとか、1月1日にスタートさせることができました。
小説を載せていきたいと思います。
ブログで小説は初めてですが、がんばります。
ちまちま更新すると思うので、しばらく放置して、
まとめて読んでもらっても構いません。
いや、まとめて読むと、つじつまが合わないことにすぐ気づいてしまったりする恐れがあるので、ちまちま読んでください。
それではよろしく!