>>前回の話を読む
2人の警察官がやってきたときも、嬉色は正座したままだった。その足の間には100万円がはさまっている。嬉色は足が重なっている部分に手を置き、一見おしとやかな女性に見せかけて、100万円を念入りに隠していた。何はともあれ、100万円のことは隠しておいた方が得策だと思えたのだった。
2人はどちらもアメフト選手のようなごつい体格をしていて、無表情だ。しかし身長差はかなりのもので、最初に話しかけてきたのは、嬉色とほぼ同じくらいくらいの背丈をした男だった。もう一人は、その1.5倍はありそうに見える。一瞬外国人かと思ってしまうほどの迫力があった。
「あなた、ずっとここにいました?」
「ええ」
「何時からですか?」
フリマは11時からのはずだった。それは覚えている。家の郵便受けに入っていた、フリマ出店者募集案内のビラを見ているからだ。アイツが残したマンガ本やガラクタを売ってしまえないかと考えて、中身に目を通していた。しかし土曜の11時開催なのを知り「そんな朝っぱらから、行けるかボケ」と軽く悪態をついたのを覚えている。
しかし11時と嘘をついたところで何になるだろう? そもそも、正直に話した方が身のためではないか。正直に言えば、警察官もわかってくれる。
膝の間に札束をはさんでいる理由も。
「13時20分からです」
「13時、20分?」
小さい警察官の表情が変わった
袖をまくり、腕時計を確かめる。
「ずっといたって、さっき答えたよね。あなた?」
「答えた気がします」
「今、何時かわかります?」
「14時くらい?」
「13時30分。13時20分からだと、まだ10分しか経っていないね。どういうことだろう? それでも、ずっといたってことになるのかな? それともお昼にでも行ってた?」
「ああ、じゃあ13時ちょうどくらいからいたかな。携帯電話忘れてきて、時間がよくわからないんですよ。腕時計もしてないし」
小さい警察官は眉間に皺を寄せ、足の爪先でトントンと地面を叩きはじめた。大きい警察官はというと、微動だにしない。
「出店を始めたのが、13時?」
「いえ。出店の時間は……、よくわかりません」
「なんで? 君が店を出したんじゃないの?」
「いえ」
「じゃあ、誰。誰なの」
警察官はジロジロと嬉色の顔を覗き込んだ。しかしなぜか目は見ず、少し下、鼻か頬のあたりをじっと見つめていた。その視線になんだか気分を害した嬉色は、「出店していたのは大きなハゲ頭です」と言うことができなかった。
「彼氏とケンカして、こんなことになってるんですよ。たぶん今日は戻ってきません。これでいいですか?」
嬉色は本当のことだけを言った。できれば「きっと明日もあさっても」と付け加えたいくらいだった。
レジャーシートの上に、小さな警察官が目を走らせる。ジュラルミンケースのところで視線が止まらないか、嬉色はヒヤヒヤした。しかし目を留めるどころか、彼の視線は隣の出店者、そしてそのまた隣、あげくの果ては空を振り仰いだ。
「彼氏ね、なるほどね、そう」
そしてそのまま2人は嬉色に背中を向け、立ち去った。
大きい方の警察官は、結局一言も声を発さなかった。
「え」
もっと核心を突いてくるものと、恐れつつも期待していた嬉色は拍子抜けした。しかし一度背を向けられた今、後ろから声をかける勇気もない。もう一度話したい相手でもなかった。
彼らは、まだざわついている公園内を、周りを威嚇するようにゆっくりと歩いていった。
そういえば銃撃事件があったにしては、早く店をたたんで公園内から出て行くようにといった指示や、救急車のサイレンだとかが聞こえない。しかしただの爆竹だったにしては、警察官に尋問のようなまねをされるのも解せなかった。
考えてみれば、あの銃声と、この100万円がつながっている証拠なんて何もない。自分はただ、砂を売っただけだ。対価として100万円をもらった。店番を頼まれていたのだからしょうがない。あれがどんな砂かなんて知らない。
そのうちアイツ、いや、レックス・ルーサーは戻ってきて「悪かったな、店番代だ」といって、この100万円の中から、5万円くらい抜いてくれるに違いない。
そうだ、何も悪いことなんてしてない。
ここでただ、店番を続けていればいいんだ。
待つのが大嫌いな嬉色は、1人でも並んでいる飲食店には絶対に入ろうとしなかったし、アトラクションの待ちでイラついてケンカになるのが目に見えているから、テーマパークに行くようなこともなかった。
だからアイツは、嬉色を決して待たせることをしなかった。いつも待ち合わせ時間の15分前には現地に到着しているし、スーパーに一緒に買い物に行くときには、レジで誰かが並んでいるのを見ると、「何か買い忘れてる気がする」といってレジが空くまで時間を引き延ばしていたものだ。レジくらいいいのにと正直嬉色は思っていたが、その心遣いが面白くて、いつも後ろから笑って見ていた。
だから嬉色は、今も待つのではなく、あくまで店番をしているという意識で臨んでいた。ジュラルミンケースの中身も確かめない。お客さんがきたら適当に値段を、いささか高めに設定した値段を提示する。
時間が経つごとに、店をたたむ人間が増えていく。15時半になると、半分ほどの店が帰り支度を済ませている状態になった。スタッフらしき人物も、そろそろ終了してくださいという旨を伝え歩いている。
嬉色がそれまでに売ったのは、携帯ラジオ、ただひとつだけだった。しかしその携帯ラジオも「イヤホンが付いていないことに気付いた」ということで、10分後返品されている。
そして16時。
ついにレックス・ルーサーはやってこなかった。
16時を過ぎてもそのままにして待っていると、黄色い半袖のジャンパーを着た若いスタッフが、嬉色の前に立った。
「もう時間なので、そろそろ終わってくれますか?」
ニコニコと笑顔で笑いかけながら言う。NHKに出てくる体操のお兄さんのようにさわやかで、誰にでも好かれそうに見えた。
「終わりたいことは終わりたいんですけど」
「なんでしょう?」
「本当のお店の人が、どっか行っちゃって。私は店番を任されただけなんです。」
「いつ帰ってくるんですか?」
「さあ……。そういうことは何も。すごく迷惑してるんですよ。まだお昼も食べてないし」
「それは迷惑ですね」
男は急に無表情になって、じっと嬉色の顔を見た。
「とりあえず、片付けてもらえます?」
男はパンッと、自分の太ももを平手で叩いた。こっちも仕事なんだから、つべこべ余計なことを言わず、早くここから出ていってくれと言いたげだった。
「いえ、まだここにいます」
「困ります、時間は守ってもらわないと。週に1回のフリマがこんなに続いているのは、みんなが規則を守ってくれているからなんですから」
「物は売りませんよ。ただ公園で座ってるだけです。それでもダメですか?」
「ダメです。こんなに売り物が置いてあるようじゃ……。売らないなら売らないで、これじゃまるでホームレスじゃないですか」
「ホームレス? 何ですか、その言い方」
「どっちにしても、迷惑ってことですよ。最近はホームレスか出店者かよくわからないようなのもたくさんいて、もうこっちは……、ふん」
そう言って苦笑いする男に、空腹の嬉色はブチンと切れた。
「なんですかそれ。……は?」
男の苦笑いの度が増す。
「怒られるのはこっちなんですよ。あなたがどいてくれないと」
「そんなこと、あの世間知らずなハゲ頭に言えばいいでしょ。あなたが誰に怒られるか知らないけどねえ、すでに私が怒ってるのよ。なんで私のせいになるわけ? ちゃんと管理してないのは、あんたたちの方じゃないの? あんなハゲ頭に出店許可出したのは、どこのどいつよ!」
お腹が減ってたまらないこともあって、嬉色の機嫌はどんどん悪くなる。男はこれみよがしに、大きなため息をついた。
「次周ってきたときにまだいたら、次回からの出店を禁止します」
最後に中途半端な権力をふりかざして立ち去った男は、それから2時間経って嬉色がやっと片付けを始める頃になっても戻ってこなかった。
2時間の間、嬉色は暇つぶしに、商品らしき1冊の本を読んでいた。
本のタイトルは「宇宙人に会った」。
なんて大胆な告白だろう。「UFO大接近」という副題付きだ。宇宙人の健康診断をした医者だとか、石鹸の泡のような宇宙人と格闘したおばさんの話だとか、いかにもうさん臭い証言の数々をあくまでマジメに書いた、いわゆるトンデモ本だ。裏表紙には100円の値札が貼ってある。
でもこんなトンデモ本の話も、あの日のあいつに比べたら、そこまでトンデモなくない。
嬉色は何度も、あの日のことを頭に浮かべた。
「あのドアが開いたんだよ。中にえらく大変なものが……。もう時間がないんだ、早く見つけてやらないと。ここに来た人たちが死んじゃう。これがどういうことか、わかる?」
もちろんわからず、嬉色は涙を流しながら首を振った。明日は自分の25歳の誕生日だというのに、しばらく一人になりたいと、あいつは言い出したのだった。
「どう説明したらいいものかなあ。全部は言えないし。だからつまり、その……」
いつもなら泣いている嬉色を抱きしめてくれるはずだったが、その日のあいつは、様子が違った。ひたすら焦って、頭をかきむしっている。泣いていることにさえ気付いていないのではないか。
いつかこんな日がくるんだと嬉色は覚悟していた。いつもそうだ。
2人の関係が危機に陥ったとき、相手の眼は私の眼を見ず、どこか遠くを見ている。
そしてあいつは言った。
「その、突き詰めて言うとさ、地球の危機ってことなんだよ!」
嬉色は右手を大きく振りかぶり、彼の頬に平手打ちした。
パシーンと音が鳴り、あいつは、五島和海(ごとう かずみ)は床に倒れた。
そして嬉色はバカ笑いを始める。眼から涙を流しながら、床に倒れたカズミを指差して大笑いする。なぜ自分がこんなことをするのかさっぱりわからなかったが、そうするよりほかなかった。
その30分後、和海は出て行った。
荷物はとりあえず自分の家に持っていくことにした。2回か3回に分けないと持って帰れない量で、気が沈む。
レジャーシートのあったところには、書置きを残しておくことにした。ノートとボールペンがちょうどあったので、1枚やぶって書いたのだ。
荷物は預かった。ここまで連絡されたし。090-×××-××××
近くに落ちていた枝を拾って、紙をブスっと一刺し、土に深くつなぎとめた。携帯番号が公衆の面前にさらされることとになったけれど、嬉色はさして気にしなかった。どうせもうすぐ番号を変えるつもりだった。
さっき1枚やぶったノートを、片付けがてらパラパラとめくってみる。まっさらなノートだと思っていたのけれど、一番最後のページに、何かずらりと一覧書きされていた。
非常袋 3,000円
黒い鍋 1,500円
本類(文庫) 200円
どうやら商品名とその値段らしかった。汚く、いかにもヤクザっぽい暴力的な字体で殴り書きされている。
キャットタワー 10,000円
香水 1,000円
ラジオ 800円
キャットタワーも、この字体だとまるでホラー映画のタイトルだ。もう売れてしまったのか、一覧にはあって、レジャーシートの上にないものもあった。キャットタワーはまだある。一番持って帰るのが大変そうだ。
そうして一番下まで流し読み、最後の行に嬉色は思わず息を呑んだ。
砂 500万円
「うげ!」
こうして嬉色のフリマチック・パーク1日目が、終わった。
>>前回の話を読む
嬉色は仕方なくレジャーシートの上に座って、数々の商品を眺めていた。
安物の腕時計、ボロボロのスニーカー、碁盤、「非常持出袋」と書かれた銀色テカテカの大きな袋、すき焼き鍋……、そこには何の統一感もない。
とりあえずじっと待っていれば、そのうち戻ってくるだろう。どうかこのまま、誰も私に話しかけませんようにと嬉色は祈った。
だいたいの人は、少し前かがみになって商品を一瞥し、そのまま去っていく。こんなガラクタを買おうとする人間は、そうそういまい。
ちょっと安心した嬉色は、携帯電話を忘れてきたことに気づいた。これでは時間もわからない。13時10分に起きて、5分後には家を出ていたから、今はまだ13時20分くらいか。フリマの終了は確か、16時頃だった。
まさかそれまで戻ってこないなんてことはないだろう。
そうやって考えこんでいると、急に怒りがこみ上げてきた。白いコートを着たスキンヘッドだからって、見ず知らずの乙女を店番にする権利がどこにある。だいたい「ハニー」なんて軽々しく……。
そうやって眉間に皺を寄せていると、一人の不審な男が、嬉色のレジャーシートの前で立ち止まった。茶色いスラックスに、くたびれたネルシャツ、そしてリュックサック。
顔からは汗、汗、汗。
ファッションセンスには真っ向から疑うとして、まだ桜も咲かぬこの早春に、なぜこんなに汗をかいているのか。嬉色は普通にぞっとした。脂肪分の多い体をしてはいるが、汗かきデブというには足りない。
彼はその指先で汗をぬぐいながら、じいっと商品を覗き込んでいる。そして手をさっと伸ばし……、ひっこめる。手をさっと伸ばし、ちらっと触り、ひっこめる。
彼が汗まみれの指で触っているのは、円筒状に丸められたポスターだった。
どうやら何のポスターなのか、確かめたがっているようだ。円筒の中を遠目にのぞき、小首をかしげ、戻す。ポスターは全部で5つほどあったが、そのすべてを確かめた後、また1つ目に戻っていった。
嬉色はそれをあえて無視した。「広げてみますか」「何なら持ってっていいですよ」そんな言葉をかけてやれば親切だったが、とてもそんな気にはなれない。
代わりに「早くどっかいけ。おととい来い」と心の中で毒づいた。
すると男はポスターを置いて、レジャーシートの前をすっと離れた。しかし男は名残惜しそうに、何度もチラチラと振り返る。
嬉色はその姿を目で追った。
男はポスターと嬉色を交互に見やっている。ポスターを30秒見て、嬉色を2秒見る。ポスターを30秒見て、嬉色を2秒見る。しかし自分もまた嬉色に見られていることに気付くと、そそくさと男は人ごみに紛れた。
「おい」
声がして嬉色が目を前に戻すと、新手の客が立っていた。
肩よりも長く伸びた髪に、丸くて真っ黒いサングラス。猫背の小さな男だった。泥臭いSF映画に出てきそうなアジア人を思い起こさせる。この男も、どうみてもカタギではない。
「いくらだ」
何の商品を示すでもなく、早口で彼はそう言った。
嬉色が答えられないでいると、
「ハウ、マッチ、イズディス」
と、やはり何の商品も示さないまま言った。
「アイ、ドント、ノー」
嬉色は答えた。
すると男はすっと腰を落とし、レジャーシートの上にある、ある物を取り上げた。赤い宝石がいくつか飾られている小箱だ。
彼はそのフタを開けた。一瞬、いぶかしげな顔をする。小箱の中に指を入れるが、何も出てこない。逆さにしても何も出てこない。彼は自分の耳元に小箱を持っていくと、小箱の横っ面をコンコンと指で叩いた。その後、底で少し出張っている縁の部分を爪ではじく。
すると底がパカッと開いて、中から小さなビニール袋が落ちてきた。男がそれを持ち上げる。袋の口は丸結びしてあった。袋の中身は、粉に見えた。
男はまだ嬉色が外国籍の女だと勘違いしているらしく、袋を持ってこう言った。
「リピートアフターミー。ハウマッチ、イズディス」
「……ハウマッチ、イズディス」
嬉色は命令通り、男の言葉を繰り返した。
しばらく沈黙が流れた。
代わりに嬉色が問いかける。
「ホワット、イズイット」
「イズイット? ディスイズア、ア……」
ドラッグだ、ドラッグに決まってる。嬉色はそう確信した。そして目の前のこいつはヤク中。
「……ア、ア、スナ」
「アスナ?」
「ノー。スナ。イッツア、ジャパニーズネーム、スナ」
なるほど、粉にしては粒が大きいようには見える。砂か。
「で、この砂がいくらするのか聞きたいのね」
「……なんだ、日本人じゃないか」
「ハーフだけどね」
とりあえず嘘をついた。
「そりゃそうだ、あの野郎が英語なんてしゃべられるわけないな。それで、それはいくらだ? どうせあの野郎のことだ、直接渡すのは照れくさいっていうんだろう。テルテルボウズのテルボウズってわけだ。ボウズが聞いてあきれるぜ」
「まあね」
よくわからなかったが、嬉色は相槌をうっておいた。
「で、いくらだ?」
「100万円」
「ふん、高くつくな」
「上物だからね。純度が違うのよ、純度が」
嬉色はわざと横にも聞こえるように、少し大きめの声で言った。誰か警察を呼んでくれればいい。公園でドラッグの売買が行われています。若い女がバイヤーで、長髪のマフィアが、白い粉を買おうとしています。しかし横に店を出しているおばさんは、客とバカ笑いをしていて気付かない。
「本物って、ことだな」
男は堂々と袋を高く掲げると、サングラス越しにジロジロと眺めている。きっと純度を確かめているのだろう。嬉色は自分の適当なウソがバレやしないかと、ヒヤヒヤした。
しかし男は、袋を見ながら小声でつぶやいた。
「……あのとき、たまをはずした俺が悪いんだ。しょうがないな」
「え、なに?」
「いや、こっちのタニシだ。それはともかくハニー、90万に負けてくれないか?」
またハニーと呼ばれた。どうやら女をハニーと呼ぶのが流行っているらしい。嬉色は、早く帰って猫のハニーを撫で撫でしたくてたまらなくなった。
「1,000円までしか、まけられない。99万9,000円ならいいよ」
「そうか、わかった。まあ妥当な値段だろう。もうあの頃から、何万年も経つし……。そうだな、あの野郎が戻ってきたら、カツメシって言っておいてくれ」
彼は黒いジャケットの内ポケットをまさぐった。
「カツメシね」
「ああ、イカメシだ」
そして出てきたのは、札束だった。今まで見たことのないほどの束。いや、嬉色は束自体を見たことがなかった、テレビでしか。本物の札束は、なんともいかめしかった。
「100枚ある。数えろ」
そうやってポイと嬉色へ札束が放り投げられた。
嬉色はドキドキしながら、札束を数え始めた。妙に気分が高揚していた。これが悪の世界の魅力というやつかなどとバカなことを考えていると、50あたりで数がわからなくなった。1に戻ってやり直す。
今度はなぜかアイツのことが思い浮かんできて、アイツが欲しがっていた大型のレーザーサーチライトもこれなら買えるかもなあと思っていると、40くらいで数がわからなくなって……。
そしていつのまにか、男は目の前から消えていた。
1,000円のおつりはいらないのだろうか。
嬉色は正座をし、札束をとりあえず膝の間に挟むことにした。このままトンズラすれば、大金持ちだ。レーザーサーチライトはともかく、森伊蔵をネットで何本も落札できる。
高い焼酎を買ってきてはアイツに怒られ、ケンカになり、そして結局はひれ伏させた毎日が思い浮かぶ。
でも今は家で飲むこともなくなった。一人で飲んでもそれほど楽しくない。
森伊蔵はいらない。この100万円は、別のことに使おう。
嬉色はお酒をあきらめた。
そうだ、ハニーのために使えばいい。毎日缶詰をあげよう。トイレには最高級の猫砂。部屋にはキャットウォークを作って、いつも私を見下ろせるようにしてやろう。
ブラシもそろそろ新しいのを……
嬉色が夢想にふけっていると、リュックの男がまたやってきた。彼は前よりも一層汗だくになっている。
さして興味もないだろうに、碁盤や非常袋をいじくる。さも初めてきましたよといった体で。しかし、彼の手はまたポスターに戻っていくのだった。残念ながらポスターはセロテープでとめられていて、その全貌を見ようと思ったら嬉色に一言お願いするしかない。しかも、その円筒の中からチラリと見えるのは、どうやら水着の女性だ。
男はとうとう、そのポスターを手に持ち、口を開いた。
「あの、これ」
嬉色はポスターを見た。そして、いぶかしげに小首をかしげて見せた。「あの、これ」程度で簡単に察してやるものかと。
「い、いくら?」
買うのか! まさか本当にこんなポスターを買うのか!
嬉色は呆れ果てながら、ズバリと言い切った。
「1万円」
さっきの砂が100万円なら、こっちは1万円だ。それほど高くもないだろう。
「え? 1万円?」
「うん、1万円」
あくまで冷淡にそう言い放った。
「あ、え? それは、ちょっと」
「じゃあいくらなら買うのよ?」
眉根にしわを寄せ、露骨に嫌な顔をして問いかけた。
「な、7,000円ならどうですか?」
「……」
相手の方が一枚上手だった。嬉色は言葉を失い、空を見上げる。
なんていい天気だろう。絶好のフリマ日和だ。
目の前の男は財布を出しはじめた。
今にも彼は、5,000円札1枚と、1,000円札2枚を財布から取り出そうとしている。
「……1,000円で、いいよ」
こんなポスターに1,000円でも解せないが、嬉色は手を前に差し出した。お金を受け取るつもりだった。あくまでそこに、1,000円札を1枚置いてくれという意思表示だった。100万円よりはずいぶん数えやすいに違いない。
だのに彼は、その手を握った。汗まみれのその手で。
そして、軽く揺すった。
「ありがとう」
男は感謝の言葉まで述べだした。意外とさわやかな笑顔が嬉色を見つめる。そして1,000円札を出すと、嬉色の手に置いた。しわくちゃの1,000円札。しかも濡れている。
そしてポスターを手に、彼は颯爽と立ち去ろうとした。
またわけのわからない人間が、嬉色の目の前から、わけのわからないままいなくなろうとしていた。白いコートのレックス・ルーサー、中国人マフィアのグラサン男、そして、そう、アイツと同じように。
みんなどうして、こんなに勝手なんだろう。
「ちょ、ちょっと待って」
嬉色は腹の底からしぼり出したような声で、男を引きとめた。
彼は立ち止まり、少し不安そうな顔をして嬉色を振り向いた。やっぱり1,000円では足りないと言われるとでも思ったのかもしれない。
「そのポスター、一体、何なの?」
「え」
「誰? その水着は、一体誰? なんで、1,000円も、払えるの?」
嬉色はそう、思い切ってたずねた。どんなバカげた答えでもいいから、理由を教えてほしい。納得できる理由を。
「……ゴクミ」
恥ずかしそうに彼は言った。丸められていたポスターのセロテープをはがし、彼はポスターの全体を露にして見せた。水着のゴクミが目の前に広がる。
「かなり貴重な、1990年の水着ショットだよ。たった1,000円で売ってくれるなんて。さすがに1万円はどうかと思うけど。ネットでも見つからなかったんだ。3,000円でも良かったと思うよ。いや、4,000円かな。あ、でも僕はもう、10万円でも売らない。いや、100万円でも売らないぞ!」
男が、いきなり饒舌になった。
しばらく彼は嬉色の反応を待っていたが、嬉色は何も言えなかった。
嬉色の頭の中では、ただ往年のアイドルの顔がぼんやりと浮かぶだけだった。
2人の間で、時が一瞬止まった。そして、
バァーン!
公園に突如轟音が鳴り響いた。嬉色は反射的に顔を横にそむけ、ゴクミ男は前のめりに倒れこんだ。いたるところで悲鳴が聞こえ、音の出どころを探そうと、みなが視線をさまよわせ、慌てふためいている。
今までおだやかだった公園は、一気に緊張状態に包みこまれた。
ゴクミに遅めのツッコミが入ったんだと、嬉色は頭を抱えながら思った。でもこんなに大きなツッコミを入れなくても……、ちょっとこれはやり過ぎだ。
一方、ツッコミを入れられたゴクミ男は、土の上に腹ばいになり、ガクガクと震えている。みじめこの上なかった。
これがただの爆竹ではないことは、そこにいるみんなが感じていた。
これは銃声だ。たぶん紛れもなく銃声だ。
それからパトカーのサイレンが聞こえてくるまで、ものの30秒もかからなかった。ある者は木の陰に隠れ、ある者は公園のフェンスを乗り越えようとし、ゴクミ男はお尻から槍で串刺しにされたかのような状態で死んだふりをしていた。
そして嬉色の頭の中では、レックス・ルーサーの姿と、あの中国人マフィアの顔が浮かび上がってきていた。
あの、あからさまな悪党面たちが。
「そうだ、あげあげだ!」
そんなことを言って立ち去った、ヤクザ者の顔。
「……あのとき、たまをはずした俺が悪いんだ」
そんなことを言って100万円出した、長髪グラサンの顔。
あたりは騒然としながらも、次第に統制を取り戻しつつあった。二発目は鳴らなかったし、誰も現場を見ていないからだ。パトカーが到着してしばらくすると、いくつかの勝手な憶測が飛び交い始めた。「テロじゃない?」「水道管が破裂したのよ」「誰か撃たれたっぽい」「悲鳴が聞こえた気がする」「アレが爆発したんじゃない?」「ああ、アレか」
嬉色はまだアレのことを知らなかったし、嬉色にしてみれば、それは銃声にしか聞こえなかった。
いつのまにか目の前からゴクミ男は消えていた。ポスターはちゃんと持って行ったらしい。
嬉色はただ座って事の成り行きを、とりあえず静観することにした。静観しながらも、周りに気づかれないよう慎重に、レジャーシートの上にある物を観察することにもした。
ほとんどがガラクタだが、ひとつだけ、悪のオーラがユラユラと漂い出ている物があった。銀色に光るジュラルミンケースだ。サイズは小さめで、週刊少年マンガ誌がやっと2冊入るほどだった。
銃が入っていたとしても、全然おかしくはない。
全然おかしくはない。
>>前回の話を読む
13時10分、嬉色は起きた。
嬉色は、前の日のことを無理に思い出そうとしたりはしない。それが無駄な努力になるとわかっているし、思い出せたところで、いいことがあるわけがない。
だから机の上にあったトマトを、何の躊躇もなくゴミ箱に捨てた。そしてゴミ箱行きの夜を過ごした後の朝は必ず、満面の笑みを浮かべて、
「おはよう、ハニー」
猫のハニーに挨拶することにしている。
窓辺で、ちらと嬉色の方を向いたハニーは、すぐに毛づくろいの仕事に戻った。そんなハニーに日光浴をさせてあげようと、嬉色は窓辺に近づき、カーテンを開いた。
まぶしい日差しが部屋を満たしていく。
今日は土曜日だ。
腰に両手を当てて、背筋を伸ばす。
嬉色は、東京都の最南端、大田区にあるマンションの5階に住んでいた。家賃6万9千円の1DK。雑種の猫と26歳の女性1人が住むには、ちょうどいい広さだった。
部屋の窓からは公園が見えている。
マンションと隣接しているこの公園は、「羽穂(うほ)公園」といった。だが嬉色は読み方がわからず、はねほ公園だと今も思い込んでいる。
羽穂公園の敷地は広くて、テニスコートや交通広場、噴水もあった。公園の入り口は嬉色の住むマンションに近い。その入り口から公園に入ると、右と左の道に分かれる。左に行くと噴水広場だ。右には道が続いていて、その道沿いにはたくさんのシートが敷かれている。シートの上には人が座っていた。
その道の真ん中を、たくさんの人が通り過ぎていく。たくさんといっても、公園にしてはたくさんという程度。プロのサッカー選手なら、誰にもぶつからず、ジグザグに全力ダッシュで駆け抜けられる程度だ。
そんな公園を、嬉色は見下ろしている。
背筋を伸ばしたまま、彼女はほがらかにつぶやいた。
「ぶっ殺してやる」
ハニーも「ブニャー」と鳴いて同意する。
そのブサイク鳴き声を聞いて、嬉色は少し元気が出てきた。せっかくの休み、なんだか外に出て行きたい気分だった。幸い、服は着ている。今すぐにでも出られるだろう。
そう嬉色は確信した。
窓際から玄関まで、足を止めたのは、猫の餌皿の前でだけだった。皿にはカリカリ(乾燥キャットフード)が10粒ほどしか残っていなかった。嬉色は皿に、新たなカリカリを存分に補給してやった。
さらさらのショートヘアが自慢の嬉色は、手ぐしで簡単に寝癖を直す。
愛用のスニーカーを無造作に履いて、後ろをちょいと向いた。ハニーがついてきていないのを確かめる。ドアが開くのを狙って、ハニーはすうっと外へ出てしまうことがある。
そして嬉色はドアを開け、外に出た。とりあえずの行き先は決まっている。嬉色のマンションのすぐ前に広がる羽穂公園。
通称「フリマチック・パーク」だ。
羽穂(うほ)公園を入ってすぐ右の道。両脇の高い木の上の方には、横断幕が掲げられている。木と木の間は5メートルほどもあり、大掛かりな横断幕だった。
そこには、こう書かれている。
「フリマチック・パーク in 羽穂公園 フリマ開催!」
フリマチック・パークの文字が大きく赤で書かれ、その後に続く文言は小さく黒で書かれている。嬉色はいつもこの横断幕を見るたび、うれしくなる。公園の中に公園があって、フリマ開催である。「フリマ開催! in 羽穂公園」だけで良さそうなものだ。フリマチック・パークって何だ。その中途半端なバカバカしさが良かった。
この羽穂公園では週に1回、フリーマーケットが開催されている。こんなにコンスタントにフリマを開催している公園はそうない。フリマチック・パークと勝手に名前を付けるのも、あながち理由のないことではなかった。
横断幕は、開催日以外でも取り付けられたままだ。だからカタカナを読める子供は「羽穂公園」よりも「フリマチック・パーク」という名前でここを呼ぶ。
今日も道の両脇にはレジャーシートを広げて、いろんな物を売っている人たちがいる。
洋服が一番多いが、場所柄、あまり若い子はいない。おばちゃん服が大量大売出し中だった。子供のおもちゃ、マンガ本のセット、粗品のタオル、小さなダンボールに雑然と入れられたCD。食器のセット、ジャンクなノートパソコン……。
嬉色はそれらになんとなく目を走らせながら、春の陽気を楽しんでいた。財布も持ってきていないので、買い物もできない。どのみちガラクタを買うのは嫌だった。
ただ、見ているだけなら楽しい。
道を少し行くと、小さな広場に出る。広場からはまた道が二手に分かれているのだけれど、ここがフリマのメイン会場ともいえる場所だった。広場の中央付近にもシートが陣取られているため、フリマの客は、ぐるりと一周することができる。
嬉色があと10歩ほどでその広場に入ろうというとき、唐突に脇から大声があがった。
「おい、そこの君!」
反射的に嬉色はその場に立ち止まり、横を向いた。まるで時代劇で聞くような、底の深い、低い男の声がした方向を。
見ると、趣味の悪い白いコートを着た大きな男が、レジャーシートの上ですっくと立っていた。コート同様、顔も白人のように白い。鼻が大きくて、眉毛が限りなく薄い。
頭はハゲている。見事なスキンヘッドだった。
嬉色はその男を、明らかにヤクザだと思ったし、スーパーマンに出てくるレックス・ルーサーかとも思った。
「そう、君だよ、ハニー」
レックスは手招きした。
こんな男にハニー呼ばわりされる覚えはない。嬉色は首を回し、人違いであることを期待して視線を縦横無尽に走らせた。
が、無駄なことだった。
レックスはレジャーシートをまたぐと嬉色へ近づき、あろうことか両肩をその手でひっつかんだのだ。そのままレックスに顔面をぐっと突きつけられて、思わず嬉色はのけぞった。レックスが肩をつかんでいなければ、後ろに倒れていたほどに。
のけぞった嬉色の目を、レックスはギロリとにらみつけた。
「お願いがある。店番だ。店番をしてくれ。いいか、ここに座って、売るだけでいい。そうだな、1,000円までならまけてもいい。それ以上はだめだ。絶対だめだ。わかったか?」
わかった? 何が? 嬉色は頭が混乱し過ぎて、つい聞いてみた。
「2,000円はだめってことですね」
「違う!」
「……」
「1,010円でもだめだ! あげる分にはいい!」
「あげる?」
「そうだ、あげあげだ! とにかくすぐ戻るから、ここにいて店番をしてくれ」
そう言うと、レックスは颯爽と立ち去った。プロのサッカー選手のようにスイスイと道を駆け抜けるわけにはいかず、他の人の体にぶつけながら、公園の入り口へドタドタと駆けていく。ぶつかるたび「すまんな」「すまんな」と声をかけていた。
嬉色は、その後ろ姿をしばし眺めていた。
彼の立ち去った後には、無人の大きなレジャーシートが残されている。上にはなんだか得体の知れないガラクタが大量に置いてあった。
「あげあげ?」
嬉色は、そうつぶやくのがやっとだった。
>>第3回「ゴクミ男と銃声」へ続く
トマトが目の前にあった。なぜトマトがあるのか、向井嬉色(きいろ)にはさっぱりわからない。真っ白くて大きなお皿の上に、トマトがひとつ。真上から照明を浴びて、つるつるの表面をテカテカ光らせている。
猫のハニーが玄関付近で鳴いていた。ときどきクカッという音をさせて前足で壁を叩いているあたり、トイレのドアを開けてもらいたがっているようだ。
そこで嬉色は。慌ててテーブルの端に手をかけて立ち上がると、フラフラとトイレに向かって歩いた。
ハニーをトイレに入れてやるためではない。自分が今恐るべき状態でいて、今にも何かが喉元までこみ上げてくるのに、ふと気付いたからだ。頭の中ではトマトが、まるで万華鏡を見ているように大きさや形を変え飛び交っている。
嬉色は泥酔していた。
何の恨みがあるのか、途中でハニーが立ちふさがった。嬉色を見上げて「ヴニャー」と鳴く。ハニーは、猫とは思えない、とてもブサイクな声で鳴く。豚と馬と猫の鳴き声を足して、3で割ったような声だ。
しかしほとんど惰性で動いていた嬉色は足を止めることができず、ハニーを踏むまいと慌てて横に上体を反らしたところ、思い切り壁にぶつかった。
「うぎょ!」
いつもは美声が売り物の嬉色も、このときばかりはハニーに負けず劣らずのブサイク声で悲鳴を上げた。
(「キイロ! 負けてはだめ! あなたは負け犬なんかじゃない!」)
なぜか頭の中で、母が声援を投げかけてきた。いつもは「なるようになるよ」としか言わない母だったが、今はなぜか真剣だった。
でも確かに負けるわけにはいかない。今なるようになったら、明日の朝、イヤなものを床に見てとるか、最悪の場合、足を滑らせて転んで、ソレまみれになるかもしれない。
「ど、どけぇ……」
なんとかハニーにそう言ったつもりが、ハニーはすでに後方へ退避していた。
トイレのドアを開ける。便器のフタを開ける。座る。もちろん便座の上にではなく、便座の前にだ。
「………はぁ、はぁ、はぁ」
ひとしきり終わると、今度は便座の上に座ってひと休みした。
開きっぱなしのドアからすかさずハニーがやってきて、何の断りもなくひざの上に飛び乗った。嬉色はその背中をやさしく撫でてあげた。ゴロゴロとハニーがのどを鳴らす。頭を飛び交うトマトの数は先ほどよりは少なく、小さくなっていたけれど、まだまだ頭痛は治まりそうになかった。
なぜ机の上にトマトを置いていたのか、嬉色は考えることにした。トマトを憎んでいる嬉色にとって、トマトがあるだけでも不思議なのに、ご丁寧にも皿の上に載せていたことが解せなかった。
「あ、皿は違う。皿は違うぞー」
ふと何かを悟って、トイレのドアに向かってつぶやいた。
「トマトも違う。トマトも違うぞー」
でもトマトは合っているような気がした。
そしてまた頭痛が激しくなり、トマトが頭をぐるぐる周回飛行し始めたものだから、トイレから出て、嬉色は寝床を求めた。
ベッドの上に身を投げる力がなく、床に転がった嬉色は、アイツのトマト好きさ加減を思い出し、豪快に苦笑いした。
「トマト禁止令」を出して3日後、トマトのヘタがごみ箱に捨ててあるのを見つけたことがある。「それはパイナップルの一部なんだよ!」とわけのわからない言い訳をして、嬉色を激怒させた。だけど、今回机の上にあったトマトが、彼となんら関係しているとは思えない。彼を想い感傷的になって、思わずトマトを買ったりするような人間とは自分は違うということも承知している。
そのアイツは、不可解な別れの言葉を残して去って行った。パイナップル事件のときより、よっぽどわけのわからない言葉を残して。
うらめしかったし憎たらしかったし、できることなら煮て焼いて缶詰にしてハニーの餌にしてやりたかった。なんなら私も食ってやると思っていた。
しかし今は、彼がどこにいるのかすらわからない。
玄関口にトマトでいっぱいの段ボール箱を置いておいて、餌にするのは悪くないなと、嬉色は思った。でもトマトを食ったアイツを食べるのだけは、絶対イヤだ。
そんなことを考えながら、嬉色は眠りについた。
>>第2回「お昼のフリマチック・パークへ」へ続く
はじめまして、星井願太郎です。
おかげさまで公式ブログを今日なんとか、1月1日にスタートさせることができました。
小説を載せていきたいと思います。
ブログで小説は初めてですが、がんばります。
ちまちま更新すると思うので、しばらく放置して、
まとめて読んでもらっても構いません。
いや、まとめて読むと、つじつまが合わないことにすぐ気づいてしまったりする恐れがあるので、ちまちま読んでください。
それではよろしく!